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[歴史]自立した農業経営と真の酪農を目指して (第2話)

昭和20年代・南ヶ丘牧場創業期

那須野ケ原と呼ばれる平野一帯は、かつては野生動物の生息地であり、それを目的とした巻狩が行なわれていた。

また、那須高原は、那須岳の麓の温泉を中心にひらけた火山灰地の広がる高地で、そのスロープは一般農耕の適地とは言いがたい場所である。

土地に含まれる燐酸分はゼロ。焼き畑をして豆をまいても生育しないのは、全国でここだけと言われたほどの荒地だった。


満州から小倉へと戻った岡部勇雄は、昭和23年の秋、東京都が募集した那須開拓事業に入植申込みを行なう。その年の11月、他の35戸の入植者とともに、この悪条件の土地の開拓に着手した。

岡部の一家がまず行なわなければならなかったのは自分に割り当てられた土地を整地することだった。

楢の原生林に、篠竹と藤蔓がびっしりと生い茂る開拓地は、その地形の見当がつくのにさえ困難をきわめ、整地だけにでも2年間をようした。


【図書館】第2話メイン


初期の整地が済み、本格的な開拓が始まると、岡部は、かつて三河で行なっていた酪農を生産の基盤に据えたやり方を、この開拓地に移し植えようと考え始めた。

当時の日本で、酪農の歴史はせいぜい6、70年にすぎない。
三河での開拓生活、露人の中での生活で学んだ豊かな畜産の知識経験を持った岡部だからこそ、那須での酪農生産という発想を持ち得たとも言える。

昭和24年。岡部は南側になだらかな斜面の広がる土地を、南ヶ丘と名付けた。
酪農の第一歩はホルスタイン一頭の飼育から始まった。
宝来号と名付けた乳牛から搾乳した牛乳をその空瓶に詰め、自ら肩に担いで湯本温泉の旅館や家々に売って歩く。
それはわずかなものではあるが、貴重な現金収入となった。
やがて岡部は中古のボイラーと殺菌機を直結し、自作で蒸気殺菌機を作り上げた。

自家製品を自分の力で売るという努力は「農民の手による生産から加工、販売までの一貫システム」という命題を第一に掲げる南ヶ丘牧場の大きな第一歩であったと言えるだろう。

自家製牛乳の直売を始めた同じ年には、早くも自家製アイスクリームの製造販売にも着手。
さらに翌26年には大手乳業メーカーの製品に高品質の牛乳で対抗するために、英国産乳牛ガーンジィ種の導入に踏み切った。
また、今でも牧場の人気メニューであるロシア黒パン、ロシアペロシキの製造販売もこの年から開始し、開拓地に流れる清流を利用した鱒養殖も手掛けた。

【図書館】入植当時の風景
入植当時の風景
(牧場から八溝山系を眺める)

【図書館】岡部夫婦と宝来号
岡部夫婦と宝来号

【図書館】ガーンジィ種
ガーンジィ種




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