昭和30~40年代・南ヶ丘牧場成長期
南ヶ丘牧場はいわゆる放牧場ではない、それは製酪業を営む酪農場である。
この言葉の違いが日本語では曖昧なのは畜産の歴史の浅いこの国で、一般にはまだその仕事の実態が理解されていないからであろう。
岡部がここで試みようとしたのは、家畜飼育の難しさを解決するのに動物を生産機械と見て、いたずらな合理化・機械化を計ることをしないというやり方である。
その基礎には、三河で学んだロシア人たちの畜産知識.経験があった。

飼育は牧草を主体とし、農耕飼料は従とする。
乳牛を狭い畜舎に押し込めず出入り自由な解放畜舎・ルーズバーンを設ける。
それには準備・設備も必要であり人手と手間がかかる上、飼育能率は明らかに低下する。
しかし牛は自然の生物であり自然の摂理に反したやり方は、いつか必ず失敗を招く。
手痛い仕返しを受ける。
岡部の酪農における仕事が成功したとすれば、それはこうした考えに立って仕事を進めたからであろう。
岡部は三河の時代のように家の中にペチカを作りパン竈を築いていた。
ここを訪れる人々に岡部は牧場の自家製牛乳を勧め、ロシア料理のペロシキや黒パンを作って売ってみた。
昭和39年の春、5年がかりで交渉を重ねてきた福島県西白河郡泉崎村踏瀬の庄屋の旧家を買い取ることが、所有者の好意で実現した。
この旧家を牧場内に移転し改装して、ここを訪れる客をもてなすのにふさわしい家を建てようと岡部は考えた。
ここで暖炉に火を焚きながらジンギスカン料理などを出そうと思ったのである。
昭和39年の夏、館は完成し新館と名付けられた。客間や食堂の他、事務室や調理場、浴室、売店なども設けられた。
新館の完成により、南ヶ丘牧場の観光牧場としての事業は本格的に動き始めた。
岡部が長い間考えてきた「生産から加工販売の一貫システム」の完成の一つの姿を示したのである。
しかし発展の反面、昭和40年代に入ると那須においては、牧場の事業基盤である酪農そのもののスペースが、一貫システムを進める上で、すでに限界に近いことを岡部は感じ始めていた。

昭和30年代当時の牧場内風景

昭和30年代当時の牧場内風景







