昭和50~60年代・南ヶ丘牧場の新たなる展開
昭和42年頃から、岡部は方々に牧場の敵地を探し始めていた。事業発展の根幹である生産から加工販売までのプロセスでも、その中心となり基礎をなすものは何といっても酪農生産であることに間違いない。
方々当たっている中に初めて、猪苗代町農協の小檜山淳組合長が自分の土地を率先して譲ってくれることになり、ここに漸くこの計画実現の端緒が開けたのであった。昭和47年8月には、長男の勇一郎とその家族が、南ヶ丘の牧場牛たちと共に移り居を定めて、磐梯牧場の開拓に着手することになった。
岡部は那須の牧場で搾乳期を過ごした牛、次の種付の終わった牛をこの磐梯牧場に移し、ここで休養と出産を済ませ、体調の快復した牛を再び那須に戻していくという循環を考えていたのであろう。
しかし、開拓そのものは決して順調に推移したわけではない。ここの気象条件は那須と比べて積雪量が段違いである。降り積もる雪の中で、勇一郎と妻の恵美子は苦闘の連続であった。
さらに計画に打撃を与えたのは、オイルショックである。
磐梯牧場に北欧風のロッジが完成し、正式開場したのは昭和57年。計画から10年後のことである。
一方、本体である那須牧場は昭和49年末に開場25周年記念式典をすまし、50年代は表面上は比較的落ち着いた時代だったと言えるかもしれない。しかし、観光の面で端々の設備・施設に手を入れなければならないことは、数多くあった。
来訪者は年を追って増え、その数と要望に対応するため施設は常に見直しをしなければならなかった。またそれをこなすために、50年代に入ると社員数も50名を超えるまでになった。数の上ではもう立派な企業である。
岡部は昭和60年に体調を崩し、昭和62年から勇一郎が現場の実質的な指揮を取るようになった。時代の流れの中で、南ヶ丘牧場も組織としての転換期を迎えつつあった。
開拓当時の磐梯牧場

磐梯牧場のロッジ







